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作曲教室


最近、詞先(詞を先に作って、曲を後からつけるもの)の歌が少なく曲先(詞先の逆)の歌が多いと言う話をよく聞きます。何故なんでしょう?昔の、特に歌謡曲の時代には詞先の歌も沢山あったし、僕が大好きな作詞家 松本隆さん、作曲家 筒美京平さんのゴールデンコンビなんかは、作曲家の筒美京平さんが詞先で曲をつけるのが好きで殆ど詞先で出来ていたと松本隆さんがテレビで話しているのを聞いたことがあります。それなのに、現代は曲先が多いと言う話をよく聞くのには、何か特別な原因でもあるのでしょうか?昔に比べて作曲家の能力が衰えたのでしょうか? これは、僕は実は逆だと思うんです。何故ならば、曲先で描いた名曲は現代でも生れている訳ですから、少なくとも詞さえ付ければ曲として成立してリスナーに受け入れられている訳です。つまり、時代による流行の違いで曲調は違うにしても、作曲家はそれ程クオリティーが下がった訳ではないのだと思います。逆に詞先の曲が少ないと言うのは作詞家の方に問題があるのではないかと思うのです。もっと具体的に言うならば、文章が書けさえすれば詞も書けると思い込んでいる未熟(便宜上、敢えてこの言葉を使わせて頂きます)な作詞家が多い様な気がするのです。

作曲家が曲を作る場合には一定のルールがあり、当然それに配慮しながら作る訳ですが、作詞家は作曲家が曲を作る時ほど曲を作るという目的意識を持っていない様な感じがします。これは文章を書くことに比べて曲を作ることの方が色々な意味で制約が多いことから来るものだと思います。一例を挙げれば曲の方は一定の形式を備えた規則性が無ければ聴いている方には耳障りな場合が多く、捕えどころのない取り留めもないものになってしまうので最低限のルールは無視出来ません。それに比べて文章の方は、詞と言うことを強く意識しなければ字数にも制限されることもない為、極端な言い方をすれば、意味さえ伝われば小説だって論文だって立派な文章として成立するのです。つまり、自由度が高い分だけ歌から離れる可能性も高いのです。これが結局、少し文章が書けると詞が書けると錯覚してしまう原因となり、結果として曲をつけるのに向かない文章になってしまうのです。曲先の場合には既に出来上がった曲が文章を書く上でのガイドラインになってくれるので、そのいい意味での縛りが文章を歌に向く詞へと導いてくれるのです。つまり、簡単に言えば、作曲家が曲を作る為に歌を意識したメロディーを作る勉強をするのに比べて、作詞家(と言っていいのか判りませんが)は例え言葉や文章に対しての造詣が深くても、歌を作る勉強は作曲家の様に意識してしてはいないのです。これが、詞先が少なくなってきた原因だと思います。

歌は、作曲家だけが優れていても作詞家だけが優れていても良いものは出来ません。両者が良いものを出し合ってそれが融合してこそ、人を感動させるものが出来ると思うのです。偉そうにこんな文章を書いている、この僕もまだまだ未熟者でこれからも勉強を積み重ねて行かなければならないと痛感している次第です。一度始めたら、良い作品を作る為の当てのない旅に出る様なもので、一生の勉強だと思っています。でも、直ぐには達成できないし、達成し続けることも出来ないことなので逆に面白いのではないでしょうか?

如何でしょう。一緒に勉強しませんか?僕の方が少しだけ早く勉強を始めているので、初心者の方には僕のレベルまでの知識をお教えすることは出来ます。その為の教室を開きたいと思っています。

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